ルーツ
京都が発祥といわれる一銭洋食。イメージとしてはキャベツとそばの入っていない広島風お好み焼きのようなもので、代わりに「粉かつお」や「ねぎ」や「とろろ昆布」などをいれて焼いていた。これにソースをかけたので、洋食という名前がついたようだが、戦前は駄菓子屋などで売られ、お菓子扱いであり、食事というものではなかったようだ。
原爆で一瞬にして廃墟となった広島は、戦後の食料難に苦しんでいた。アメリカの進駐軍が小麦粉を配給してくれていたが、米が主食の日本人に小麦粉を食べる習慣がなかった。しかし、食糧難の折、何とかしてその粉を自らの食事に変え、また、売って生活の糧にしようと工夫して「一銭洋食」のようなものを「観音ねぎ」という広島産のねぎを載せて作ったところあたりが広島風お好み焼きのルーツと言って良いだろう。
爆弾を落としたアメリカから配給された粉を「メリケン粉」というフレンドリーな名前で呼び、それを食べて喜んでいた広島のご先祖さまたちに思いを馳せるとき、「日本人としてだとか、誇りだとか、プライドだとか」などという言葉が陳腐に思える。敵国のものだろうが、食べ馴れないものだろうが、自分や家族や仲間を守るために、ほかに選択肢のない中で、人間が生きて行くために考え出された、平和を象徴する究極の料理が広島風お好み焼きなのだ。
熱くなり筆がすべってしまった。それほどのものでもないだろう。しかし、そのようにして出来上がったお好み焼き屋の屋台が集まったのが、広島市の新天地広場であり、現在は広場の正面に立っている「お好み村」に多くの店が入居した。 (現在のお好み村はビルだが、その前は3階建ての木造とトタン板で作られたような粗末な建物だったような記憶がある。) これらのお好み焼き店には○○ちゃんという名前の店が多くあるが、それは戦争で夫をなくした未亡人が始めた店が多かったからだと聞く。こんど広島に観光に来て、お好み焼きを食べるひとは、そのような力強さも一緒に味わって欲しいものだ。
小学校の頃の思い出
飲んだ後はラーメンで締めるというのが全国的には普通だが、広島ではお好み焼きで締めるという人も多い。なので、流川やその周辺部の新天地のお好み村も夜遅くまで営業している。当時、私の住まいは広島の繁華街、流川からタクシーでちょっとの距離であり、お酒好きな父は、「お客さんと仕事の話を」とかいってよく流川に残業に行っていた。仕事熱心で帰りは翌日の午前1時とか2時。時々お土産を買ってきてくれる。で「おーい、うまいもんこうて(買って)きたど。熱いうちくえや(食えや)。」と熟睡している私を起こそうとする。10歳くらいの子供なので眠りの深さは深度-20,000メートルくらいなのだが、「おーい、冷めるどぉ」と何度かおらばれて(大声で呼ぶ様)、深度-7,000メートルまで戻るあたりから、お好みソースのにおいが鼻をくすぐり、深度-5,000メートルくらいになると、寝ている状態でフラフラしながら居間にたどり着けるようになる。深度-2,000メートルの深さを漂いながらも、「お好み村」で買って来てくれたらしいホカホカの包みを触り、ゆっくりと広げる。今、書きながら思い出したが、その当時お好み焼きのお持ち帰りは竹の皮に包んであり、それをまた紙に包んであった。だから、ソースが包装紙に浸みていた。 昭和45年頃なので、電子レンジもまだ普及しておらず、夜中に熱い食べ物があるという違和感と、その包みを解いたときのふだん嗅ぐことのない甘い辛いソースの匂い。
脳みそが寝ていながら、鼻と口にしあわせがいっぱいに飛び込んでくる感覚、僕を天国に連れて行ってくれる、お父さんと広島風お好み焼き。食べ終わって、少年はまた深い深い海の底に戻って行くのであった。 翌日、朝ごはん残すからお母さんの機嫌悪いけどね。
まだ続けたいが、今日はここまで。
20160415